中央東線の主
国鉄において新造配置されて、同じ線区で生涯を終える車両は少ないと思われますが、中央東線の115系は、その数少ない幸運児でありましょう。細かく見ると入れ替えや転出などがありますが、多くは留まっている状態でした。
さて、1984年2月のダイヤ改正は国鉄にとってはエポックメイキングでありました。この115系においても伴走するクモユニが引退したり、サハが抜かれて4連から3連になったりと、それなりの影響がありました。
1986年8月16日 大月駅にて
71系や73系の旧型車を1975年頃に駆逐し、安定した活躍をしていた時期です。KATOから5月に発売された今回の300代の製品は、この少し前のサハが抜かれる前の状態です。
当時は、まだ側面の幕式表示器は準備工事(スペースと配線が用意されているのみで、装置は非取付、ガラス部は鉄板の塞ぎ板)で、正面の表示幕が活躍していました。
今のようにE233が河口湖まで行くほどの宅地化が進んでおらず、高尾以遠は季節臨を除けば、ローカル運用は115系の独壇場でした。夜の塩山行や四方津行など、今はない運用もありました。シールには塩山がありましたが、四方津はありません。
そういえば、中央東線の駅名も、この時代と今とでは、随分と変わったものです。観光の集客のために駅名変更をしているようですが、地域性が失われて長い目で見ると良いのか悪いのか分かりません。ゆくゆくは、今の都内の町名と同じ経緯をたどるような気がします。