穂の原でんしゃ製作所

鉄道模型を楽しくカンタンに工作したい方にオススメ。

台風崩れの一日

雨は結構降りました

 近海で突如出現した台風は、東海地区を中心に大きな影響や被害をもたらし、上陸するまでもなく低気圧に化けてしまって、先週の台風で慣れてしまった人々に冷や汗をかかせる状況になりました。まだ被害の影響が色濃く残っている状況ですので、お見舞いを申し上げます。

 さて、模型の棚卸を兼ねた整理をしていて、ふと外を見ると太陽が見えてきました。

 そういえば、先々週に丸の内で開催されていた展示会に、こんな写真があって少々ビックリしました。どう見ても登戸駅の上り側です。注釈を見るとまさに登戸で狩野川台風通過後ということでした。

 この場所も水が出る常連だということがわかる風景ですが、そういえば2019年の台風の時は、この近所が水没したなあ、と思い出しました。

 さて、この頃の国土地理院の航空写真を見ると・・・

 まだまだ田畑が拡がるルーラルな環境であったことが判ります。小田急との短絡線がしっかりと残っていますが、既にところどころ線路が無さそうです。架線柱は残っているところもありそうです。

 立川方は単線ですので、現在の下り線の位置には2両編成の17m車らしきものが2本留置されています。この頃は2番線が上り本線だったようで、工場の引き込み線は3番線から別れていて、敷地内にタキかタサか判らないですが、タンク車らしきものが1両居ます。

 この地域の戦前の状況はというと・・・

 工場はあるものの引き込み線は無し、小田急との短絡線はしっかり機能しているようです。

 終戦直後、線路際に社宅らしきものが5棟建設され、それが今回の写真の主役たちになったわけです。この段階で引き込み線があるようです。

 そして、結構有名だと思われる写真がこちら。

 小田急との短絡線上に電車が居るのです。4両編成が1本と、2両編成が1本です。

 小田急から南武線へ応援に入ったのが1600形ということですが、屋根の形状がどうもバラバラなようですので、被写体になっているのは省型の車両かもしれません。いずれにしても、自力回送で走れるという、この線路が生きていたという決定的な証拠になっているわけです。

 昭和46年の写真でも、一応中間地点の敷地は残っていたようです。まだ田畑が残っていて、この頃は穂のでんの記憶にもある風景です。

 JRになったばかりの89年。まだ線路の敷地形状は判りますし、5棟の建物も残っていました。この後解体され更地になったわけですが・・・。

 そして、現在。駅の南側は区画整理が実施されて、完全に線路の形状が判らなくなりました。また市立病院も出来まして、工場跡地も判らなくなっています。

 駅の西側は、絶賛区画整理中です。

 さて、模型の棚卸の前に、色々来るパンフ等の整理をします。健保の小冊子とかハウジングセンターのチラシとか、見ないものを送ってくるのは迷惑を通り越して資源の無駄遣いですね。

 これも、お断りしても送り続けられる迷惑新聞社の冊子。

 そして、今日は15年ほど前に先輩から廻ってきた某氏の遺品と言われるものの引き取り手が無かったアサーンなどのプラキット。

 今となっては同社が無くなっていますので貴重品という部類になるのかもしれませんが、残念ながら全く人気が無く、更に穂のでんでも興味が無い部類ですので、残念ながら分別ごみになってしまいます。

 ということで、分別作業を行って・・・。

 これだけは再利用する価値がある品物ですので、綺麗にしてから生まれ変わらせましょう。

 板状の錘は、意外に使う場面があるんですよね~。