穂の原でんしゃ製作所

鉄道模型を楽しくカンタンに工作したい方にオススメ。

南武線 旧型車の時代 その3

矢向~鹿島田

 矢向駅を出発すると、左右に振られて暫く直線区間となります。ヤードの引き上げ線が途切れると、塚越踏切。この踏切は十字路を横切る形になっていまして、南武鉄道の起工が行われた場所でもあります。

 現在では高圧鉄塔を兼ねていた架線柱は架線部分まで残して上部は切断撤去されています。暫く下ると二ヶ領用水の町田堀鉄橋がありましたが、現在は橋げたが完全に撤去され、道床になっています。勾配が前後に残っており、用水は暗渠になって地上は緑地帯となっていますので、判りやすくなっています。

 緑地帯が途切れると高層マンション群に囲まれます。もともとは日立精工と東芝タンガロイの工場が立地していた場所。東側の東芝タンガロイ跡は、開発が昭和12年だったためかさ上げされていますが、日立精工側は戦争が激しくなった頃の開設のため、埋め立てせずに建設されたので、土地が低い状態です。そうです。この辺りから現在の新鶴見操車場にかけては、いわゆる泥田が拡がっていた地域のため、1980年代までは大型台風が来ると浸水するのが常でした。記憶に新しいのは1982年8月。関西では王子駅構内で113系や101系が大量に水没する事件がありましたが、その時に鹿島田駅も水没しました。EF15が牽引する石灰列車(上り)がパンタを下げてホームに留置されていました。水深は約20cmくらいまでありましたが、踏切から西側はもっと深かったので、歩くのをあきらめました。

 線路の両側に用水があったのですが、双方とも1980年代には暗渠となり、高層マンション建設と共に土管化され存在が容易には判らなくなりました。

 鹿島田駅は昭和63年という比較的早期に駅舎が橋上化され、不便になりました。以前は手荷物窓口もある間口の広い駅でした。線路の西側には日立精工への引き込み線があり、現在の踏切横の西側の広い敷地は、その引き込み線のヤード跡です。渡り線は昭和48年頃まで残っており、踏切横の線路も、その後数年は残存していました。

 長らく下りホーム横のヤード跡は空き地として町民のいこいの広場になっていましたが、現在進められている再開発に伴う移転用地として宅地化されました。

 駅舎横にミニ駅ビルがあり、数店舗入居していて便利な駅になっています。橋上化前までは、駅管理人?とおぼしき老夫婦の官舎らしき木造住宅が併設されていて、駅裏はなんとなく私鉄時代の雰囲気を残していました。その用地が現在ミニ駅ビルになっています。

 駅の構内は、何度か浸水しているせいか、道床にバラストが見えずに泥で埋まった感の強い状態で、ツリカケ車時代の歯車から滴った機械油が残っている微妙な色合いを醸し出している状態でした。昭和59年から南武線でのロングレール化が開始されましたが、その最初の区間が矢向~鹿島田の鹿島田寄り下り線です。駅構内は昭和63年頃にロングレール化されましたが、その時にコンクリート枕木化と共に道床の改良が行われ、現在のバラストたっぷりの状態になりました。

 矢向、鹿島田共に4両編成は川崎寄りに停車していました。

 

・・・次回へ続く。