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穂の原でんしゃ製作所

鉄道模型を楽しくカンタンに工作したい方にオススメ。

南武線 旧型車の時代 その2

尻手~矢向

 尻手駅舎は地上にある木造家屋で、昔から変わりません。駅前の短い商店街は昔と変わらぬ風情が残っていますが、やたらと鉄筋マンションが増えて、息苦しさがあります。尻手黒川線の向かいは、長らく広大な空き地となっていましたが、今年の初めにサミットが開店し、漸く空き地が無くなりました。

 尻手を出発し坂を下る途中から、高圧鉄塔が寄り添ってきて架線柱の一部を形成していました。地上時代は尻手の手前からあったようですが、高架化に伴い、高架区間のみ線路横に通常の高圧鉄塔方式で送電されていました。

 尻手~新鶴見の貨物短絡線は戦後の建設。本線から分かれた直後にあった第4種踏切も、数年前に遮断機付きの自動踏切になりました。

 ほどなく進行右手に電留線+保線基地が見えますが、そこが旧矢向電車区の跡地。国鉄末期まで旧電車区の配線が残されていましたが、JR化と共に土地の整理がされ、電留線も整備され、川崎河岸支線の廃線跡も撤去され、昔の面影は少なくなりました。

 本線から電留線に分岐する線路も徐々に撤去され、現在では渡り線1か所のみで上り線からの入庫が出来なくなりました。

 矢向駅も昔の面影を残しています。最近は夜間無人駅になってしまいました。かつての貨物ヤードは電留線化され、昼間時や夜間は比較的多くの編成が休んでいます。矢向始発の列車の設定は今でもありますが、矢向止まりの列車はなし。川崎駅からの回送列車が入庫していきます。

 電留線はディスコンで饋電停止できるようになっており、屋上点検も可能です。足場はないので、JRになってからパンタグラフの点検作業をしているところを見かけたことは無いのですが、冬季の積雪時には、雪下ろしをしています。

 下りホームに隣接して、矢向車掌区が設置されています。下り列車で車掌の交代を行いますが、快速運転が復活してから、川崎折り返しで快速になる上り各停の運用では、上り運用で車掌の交代をするようになりました。

 川崎河岸までの支線の廃線跡は、旧矢向区直近の場所は宅地になってしまいましたが、50m程先から公園として整備され、はっきりとわかるようになっています。廃線が昭和47年でして、第2京浜を横切る踏切で貨物が横切ることも見かけたことがあります。この支線の途中から、川崎南部市場までの引き込み線も分岐していて、今の御幸警察近くで分かれていました。こちらは廃線跡はなく道路になっています。

 旧電車区構内は、昭和末期では6両編成1本が留置となっていましたが、昭和59年2月のダイヤ改正前までは、浜川崎支線の編成1本が昼間留置していました。JR化後の敷地整理で、現在の6連2本留置という配線になりました。川崎河岸支線が残っていた頃は、17m車4連が2本留置、4両編成が1本留置、6両編成が1本留置という布陣だったようです。クハ79920が留置されているのを見る機会が比較的多かった記憶があります。

 また矢向の入れ替えヤードから鹿島田寄りの東側にあった古河鋳造への引き込み線もあったようですが、こちらは比較的早期に撤去されたようで、土地の形状でその跡がなぞれる程度となっています。

 貨物列車の入れ替えをやっていた頃が懐かしく思い出されます。ダイヤが乱れた時などは、石灰列車の退避を行うこともありました。

 昭和60年ごろのとある夜、103系がブレーキ故障(下り先頭クハの運転台下でエア漏れ)が発生し、前途運用不能となったことがありましたが、この時は自動ブレーキを使用して下り本線を塚越踏切手前まで引き上げ、当時予備として残っていた1~3番線短絡渡りを使用して3番線に直接編成を引き上げする荒業をやったこともありました。普段は全く使わない線路と架線の区間を走行するため、車輪とパンタ両方から盛大に火花をバチバチ散らしながら、意外に早い速度で引き上げているのを興味深く見守りました。

 このように、電車区としての機能は無くなっていましたが、貨物ヤードとしての機能が残存していて、いざという時は役立つ設備が整った矢向駅構内です。

 今となっては、コスト削減という名の下に、必要最小限の設備しか整っておらず、万が一の時に大して活用できない状況になってしまっているのは、なんだか勿体ない気もします。

 

・・・次回へ続く。