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穂の原でんしゃ製作所

鉄道模型を楽しくカンタンに工作したい方にオススメ。

南武線 旧型車の時代 その1

川崎~尻手

 旧型車の定義は難しい時代となりましたが、ツリカケ電車を旧型車と定義すると、1970年代までがその時代となります。

 その頃の川崎駅は、まだ横須賀線東海道線と線路を共用していた時代。川崎駅の昼間時は、主に横須賀線のみ停車でした。ただ、113系の1000番代が既に活躍していて、冷房車にお目にかかれる可能性が高く、品川東京へ行く場合は横須賀線の利用が多かったように記憶しています。

 京浜東北線は、クモハ103を先頭にした編成が主力。ATC車もありましたが、MGの給電区分の関係で、冷房の効かない冷房車も数多くありました。

 さて、南武線は5/6番線ホーム。ここ1年ばかりは工事が盛んとなり、昔の面影が立川寄りの詰所以外は、あらかた消えてしまいましたが、とにかく引き込み線が多いのが特徴でした。2年ほど前に京浜東北線が転覆して一躍有名となった引き上げ線は、旧明治製菓工場への引き込み線。DD13などが牽引する貨物列車が頻繁に出入りしていました。6番線の2両目付近(今の1両目付近)からは、東芝堀川工場内へ分岐する引き込み線が残されていましたが、こちらは昭和30年代から使われていなかったようです。

 本線に沿って、今のダブルクロスと隣接して、東芝柳町工場への引き込み線もあり、これは市電通りのアンダークロスに橋脚の跡が残っています。こちらは東芝移転時点まで廃線跡が残っていました。

 昼間は、これらの引き込み線を利用した貨物列車が運転されていて、矢向のヤードで入れ替えをして浜川崎方面への貨物列車が設定されていました。

 川崎駅の停車位置は、現在よりも1両程度蒲田寄りの場所でした。昭和62年の駅舎橋上化による階段の配置の悪さから、改装間もなくホームの混雑悪化により停車位置を変更せざるを得なくなり、2段階に分けて立川寄りの現在位置に落ち着きました。

 しかし、抜本的な駅構造の悪さは改良できず(国鉄末期の、改札口集約による省力化の負の遺産です)、朝から夜まで大混雑する駅になってしまい、漸く現在の改良工事で、さてまた来年、どの程度改良されるか、見モノです。

 6両停車位置は前述のとおり。4両の停車位置は、6両と同じ位置でした。

 前面の方向板が、先頭車近傍の屋根柱の根元に置かれているケースに収納されていて、電車が到着する度に、「駅員」が表示板を入れ替えていました。

 そう、国鉄時代は、101系、103系に電車が変わっても、駅員が方向板、方向幕を入れ替えしていたのです。

 103系が入線した当初、1982年の7月でしたが、初めて自動方向幕を扱う駅員が操作に戸惑っていたのを、ついこの間のように思い出します。

 この頃は、6番線の西口側にもホームが残されていました。こちらが南武鉄道時代からの旧ホームですが、当時の中原電車区の運転士によると、6両編成の営業が始まってから柵が出来て、西口側の扱いが無くなったとのこと。当初は両方開けることがあったそうです。

 そう、まだ西口側ホーム跡には痕跡が残っていますが、現在の5・6番線は、現在の詰所より尻手側にもホームがあったそうです。今は崩されて跡形もありませんが。

 川崎を出発して暫く京浜東北線と並走していますが、踏切から大きく右にカーブしていきます。変電所を超える付近で徐々に上り勾配となっていき、第2京浜(国道1号線)をオーバークロスすることになるのですが、この坂を上る道中の右側の敷地が膨らんでいます。これは戦後まもなく高架化される際の仮線として使用された敷地の痕跡です。高架は盛土方式ですが、その東側の敷地が、当時の仮線跡で、矢向側についても線路が微妙に曲がっている付近まで仮線が横にありました。

 いまはこの勾配、E233系になって定速運転機能でそのまま駆け上がっていきますが、国鉄末期までは惰行で上るのが普通であり、60キロでノッチオフして坂を上がると、40キロくらいまでダウンして、ノロノロと尻手のホームに入線するのでした。

 運が良ければ3番線に、リベットだらけの17m車が待ち構えています。

 

・・・次回へ続く。